小松辉久
简历
小松辉久(こまつ てるひさ、1888年(明治21年)8月12日-1970年(昭和45年)11月5日)北白川宫家出身的侯爵、日本海军中将。主管潜艇的第六舰队司令。皇族时代称为北白川宫辉久王(てるひさおう)という。正三位勋一等侯爵。
北白川宫能久亲王第4王子。长兄另立为竹田宫恒久王、二哥延久王夭折、三哥继承家名称北白川宫成久王。后来因撞车死在法国。21岁成为海军少尉候补生,脱离皇籍成为小松侯爵。明治36年继承小松宫彰仁亲王的家系。本来脱离皇籍的二代王子通常授予伯爵爵位,只有他被授予了侯爵。江田岛海军兵学校第37期毕业。同期生有井上成美大将和小泽治三郎中将。海军大学毕业。曾任舰长、海军大学教官、第一潜水战队司令官、海军潜水学校校长等职。1940年任侵华日军旅顺要港部司令官。1941年任第一遣华舰队司令官。1943年任第六舰队司令官。指挥所部在我沿海各地实行登陆作战,令海军航空队轰炸沿海及后方不设防地方,所部潜艇在我东海岸一带击毁渔船、客船甚多。1944年出任海军兵学校校长,战后任平安神宫宫司。1947年被国民政府指控为重要战犯。
年谱
明治41年(1908年)8月:贵族院议员、皇族议员
明治43年7月まで、侯爵议员。大正2年8月ないし昭和21年4月。)*.11月3日:勲一等に叙せられ、旭日桐花大绶章を赐る。*.
明治42年(1909年)11月19日:海军兵学校を卒业(第37期)し、海军少尉候补生に任じられ「阿苏」佔椁蛎激椁欷搿?.
明治43年(1910年)7月20日:臣籍降下し侯爵に叙せられる。「萨摩」佔椁蛎激椁欷搿?.12月15日:海军少尉に任じられる。*.
明治44年(1911年)8月4日:炮术学校普通科学生となる。*.12月20日:水雷学校普通科学生となる。*
明治45年(1912年)4月24日:「河内」佔?.12月1日:海军中尉に任じられる。*.
大正2年(1913年)9月20日:「宗谷」佔?.
大正3年(1914年)5月27日:「鞍马」佔?.12月1日:横须贺镇守府附*.
大正4年(1915年)12月13日:海军大尉に任じられ、海军大学校乙种学生となる。*.
大正5年(1916年)6月1日:炮术学校高等科学生*.12月1日:「金刚」分队长となる。*.
大正6年(1917年)9月11日:「夕暮」佔?.12月1日:「浦风」佔?.
大正7年(1918年)6月19日:「山城」分队长*.12月23日:横须贺镇守府附*.
大正8年(1919年)12月1日:海军大学校甲种学生*.
大正10年(1921年)12月1日:海军少佐となる。*.
大正11年(1922年)12月1日:第2水雷戦队参谋*.
大正12年(1923年)11月10日:军令部参谋兼海军大学校教官*.
大正13年(1924年)12月16日:横须贺镇守府附*.
大正14年(1925年)1月12日:英国留学*.12月1日:海军中佐となる。*.
昭和2年(1927年)2月19日:帰朝する。*.4月1日:「帆风」駆逐舰长*.12月1日:军令部参谋兼海军大学校教官*.
昭和3年(1928年)12月10日:「五十铃」副长*.
昭和4年(1929年)11月15日:「长门」副长*
.昭和5年(1930年)12月1日:海军大佐に任じられ、「厳岛」舰长となる。*
.昭和6年(1931年)11月14日:「迅鲸」舰长*.
昭和7年(1932年)12月1日:「木曾」舰长*.
昭和8年(1933年)11月15日:军令部出仕*.
昭和9年(1934年)11月15日:「那智」舰长*
.昭和10年(1935年)12月2日:海军大学校教官*.
昭和11年(1936年)12月1日:海军少将に任じられ、第1潜水戦队司令官となる。*.
昭和12年(1937年)12月1日:潜水学校长*.
昭和13年(1938年)11月15日:海军大学校教头*.
昭和15年(1940年)11月15日:海军中将に任じられ、旅顺要港部司令官となる。*
.昭和16年(1941年)7月5日:第1遣支舰队长官となる。*
.昭和17年(1942年)2月14日:军令部出仕*.3月16日:第6舰队司令长官*
.昭和18年(1943年)6月21日:佐世保镇守府司令长官*.
昭和19年(1944年)11月4日:海军兵学校长*.
昭和20年(1945年)1月15日:军令部出仕*.5月15日:待命*.5月21日:予备役を仰せ付けられる。*.
昭和45年(1970年)11月5日:殁